人吉球磨地方は盆地であり、周りを見渡しても山ばかりである。筆者は子供の頃、あの山の向こうにはどんな人が住んでいるのか、あの山の峠を越えると何があるのだろう、そんな思いをずっと持っていた。別項「人吉球磨地方の自然:ふるさとの峠道」で、球磨盆地の峠道を紹介したのは、そんな昔の思いが脳裏をかすめたからである。本項は「となりまち」のことであるが、その峠道の話と、文脈的に重複している箇所があることをあらかじめお断りしておく。
「となりまち」とは、行政区分上の「町」ではなくて、人家が集まっている地域のことであり、村や町や市の一集落であり、ところによっては、「限界集落」状態の地域である。人吉球磨盆地と隣り合う行政上での市町村は、図1のように、東西南北に5市1町2村である。故事ことわざに、「遠くの親戚より近くの他人」というのがあるが、行政区を跨いでのお付き合いや交流が昔もあったはずである。今回はこの「となりまち」がどんな「まち」で、人吉球磨地方とどんな関りがあったのか、そんな話である。
図1. 人吉球磨盆地の「となりまち」 5市 1 町 2村 とその位置関係 |
1. 盆地の 東 : 西米良方面
先ずは、東西南北の「東」地区から紹介しよう。西米良村は、宮崎県で最も総人口の少ない(令和元年8月現在、1134人)自治体である。球磨郡と接するのは、水上村と湯前町、それに多良木町である。この西米良村には、日本一の支間長さ(48.2m)を誇る「カリコボーズ大橋」がある。
この橋は、一之瀬川にかかる杉の木で出来た橋で、幅7m、橋長140m、世界的にも最大級の木造車道橋である。この西米良村へ行くには、湯前町から国道219号線で、県境までは約8kmの距離である。現在の県境は横谷トンネルの中であるが、旧道には横谷峠があった。トンネルができたことで今の横谷峠はひっそりとしていて、閉店状態になった峠の建物が朽ち果てて残っている。道は、この峠の先の古墳の里、西都市方面にのびている。
さて、西米良地区と球磨郡の関りであるが、この地区は、江戸時代(1615年頃)は人吉藩であり、米良藩となってからも参勤交代の折は、人吉藩と同行することを許されていたくらい、仲のいい「となりまち」であった。西米良は、明治4年(871年)の廃藩置県の際には人吉県や八代県となり、球磨郡の一部であった。その後、明治5年(1872年)に宮崎県の児湯郡に移管されたという経緯の地区である。
2019年6月9日の朝日放送のテレビ番組「ポツンと一軒家」は、宮崎県の一軒家探しであった。探索は難航し、地元の人も迷う山道を辿り、やっと見つけた一軒家が「狭上稲荷神社:さえいなりじんじゃ」であった。でも、そこは間違えての訪問先であったが、話を聞いているうちに番組の趣旨に合うことが分かり、放送となったという話題の神社である。この「狭上稲荷神社」は創建以来1300年の歴史だそうであるが、余りにも山奥で交通便の悪い場所なので、参詣者の便をはかるため、西米良村越野尾の国道219号線沿いに分社したのが「米良稲荷」のようである。図1が、そのご本家の狭上稲荷神社である。
この狭上稲荷神社には尻尾が3本ある狐「三尾狐:さんびこ」の像がある。図2である。三本足の烏(からす)は良く知られていて、特に、三本足の熊野本宮大社の八咫烏(やたがらす)は、日本神話の神武東征の際、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏である。
図1. 狭上稲荷神社 | 図2. 三尾狐像 |
三尾狐には、どんな由来があるのかというと、狐には位(くらい)があり、長く修行するほど偉(えら)くなり、尻尾の数も増えるのだそうである。一番偉い天狐(てんこ)になると尻尾は9本の九尾狐(きゅうびこ)である。狭上稲荷神社の狐の尻尾は三本であるから、まだまだ修行年数も少ないが「善狐:ぜんこ」のようである。「善狐」とは「野狐:やこ」、すなわち、野良狐ではなく、将来の位が保証されたエリート狐である。しかし、驚くのは、この深い山中に遠い古代中国(漢時代)からの思想が持ち込まれ、継承されていることである。
この狭上稲荷神社は、球磨地方と昔から深い付き合いがあったという。旧岡原村村長の福江森重さんの話によると、球磨地方、特に岡原地区の人は、10里(約40キロ)も歩いて、山奥の狭上稲荷神社に厄払いや豊穣祈願のために参詣し、また、稲荷神社からも、わざわざ社司(しゃし)が岡原村まで出向かれて「家祓い:やばらい」が行われていたそうである。「家祓い」とは、地鎮祭や上棟祭など家新築の場合の「お祓い」の一つで、家の「陰の気」を祓い清めることである。なぜ、岡原地区と特に交流があったかというと、狭上稲荷神社社司のお母さんは岡原村から嫁ぎ、社司の弟さんは岡原村に養子に入っていて、姻戚者が多かったためであろう。
西米良地区は、球磨盆地に近く、交流もあったため、宮崎県より球磨地方と同じ習俗や嗜好(しこう)である。たとえば、お祝い事や弔事でも、球磨焼酎の2本くびりを持参する。飲む方では、宮崎県の芋焼酎よりも球磨の米焼酎が好まれている。方言にも球磨弁に似たものが多い。たとえば、「何が見えるの?」⇒「なんが見ゆっと?」、「焼酎を飲んでいるところだよ!」⇒「焼酎飲んどっとよ!」と言った具合である。
それから、似ているものと言えば、「米良神楽」と「球磨神楽」である。「球磨神楽」については、先の「人吉球磨地方の伝承文化」の中で詳しく述べたが、どちらも採物神楽(とりものかぐら)であり狩法神事(かりほうしんじ)であることである。「採物」とは神楽を舞うひとが手にするもので、弓、剣、鉾などのこと。狩法神事とは、狩猟に関する神事のことで、イノシシなどによる獣被害がなく、豊猟を祈願する神事のことである。
西米良を通る国道219号線は、この先、西米良村役場を過ぎると「米良街道」と呼ばれ、「村所」から一ツ瀬川に沿って西都原市に至る。筆者は学生の頃、名古屋からの帰省のおり、鹿児島本線や肥薩線を使わず、わざわざ遠回りで、九大線で久留米から大分へ行き、宮崎から、このルートの発着バス乗り場に行き、当時の国鉄バスで湯前まで乗車したことがある。時間のかかる山道を選んで乗る乗客はなかったらしく、村所で乗り換えるとき、ガマ口形の車掌バッグを下げた車掌さんから「間違っていませんか?」と聞かれたくらいである。
今はもう、この長距離バス路線はないが、同じ路線を西米良村の村営バスと宮崎交通バスが担っている。村営バスが走っているのは、湯前-村所間で、所要時間は約一時間、平日は3本、土日祝日は2本である。ところで、湯前-西米良間のバスは、湯前の町営バスではなくて、なぜ西米良村の村営バスなのだろうか。昔から、西米良地区と球磨郡は身近な関係にあったと述べたが、今でも病院とか買い物とかで湯前方面に出かける人が多いための措置であろう。村所-西都原間は、宮崎交通バスが日に3本運行されている。所要時間は約1時間半である。
西都原-村所-湯前路線は、旧国鉄バス路線と余り変わらない。このルートに鉄道を敷く構想が以前にあったことは、すでに「球磨先人の知恵と偉業:湯前ヨリ杉安ニ至ル鉄道:人妻線」構想で紹介した。
前述したが、西米良村の人口は千人ちょっとの小さな村であるが、年間観光客は人口の30倍もあるという不思議な村である。何が観光客を引き付けるのだろうか。
村の公式サイトによると、村の出生率は2。2%だそうである。ちなみに、大阪府は1。35であるから、いかに凄い出生率であるかが分かる。これは、定住や交流人口を増やさなければ、村の将来はないという覚悟のもとでの戦略、すなわち、村全体を「休暇村」、「桃源郷」としてブランディングして都市生活者との交流を促進した戦略が功を奏した結果だそうである。山の精霊「カリコボーズ」が住むと言われる美しい自然や、そこで育まれた豊富な農畜産物、個性的な文化を体感してもらうための「ワーキングホリデー」も好評のようである。
図3は、冒頭にも紹介したが、山の精霊「カリコボーズ」の名を冠した木造車道橋である。「カリコボウズ」とは、米良地方で昔から言い伝えられている精霊(妖怪)で、 春の彼岸から秋の彼岸までは川に住み「水神」様に、秋から春までは山に住んで「山の神」様になると言われているそうである。
図3. かりこぼうず大橋 (出典:土木ウォッチング) |